オードリー若林正恭さんの「社会人大学人見知り学部卒業見込み」に収録されている「牡蠣の一生」というエッセイについて解説していく。
完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫) [ 若林 正恭 ]
某番組収録で魚や貝を獲って生活することになった著者。
彼が海底の牡蠣を岩から剥がそうとするときに、ふと思い浮かんだ以下の素朴な疑問が今回のエッセイのテーマとなっている。
牡蠣は岩にくっついて一生を過ごすというが、一体何が楽しいんだろう
エッセイではこの後「おじいちゃん」との会話によりその内容が掘り下げられていく。
まず、なぜこのような疑問を若林さんは抱いてしまったか。
それは「岩にしがみついているだけの牡蠣の一生に何の意味も見いだせなかったから」であった。
それに対し「おじいちゃん」はこう返す。
「最初から意味なんてないんだよ」
この言葉に続くおじいちゃんの話を聞き、若林さんの考え方が変わる。
何らかの意味、目的、意義があるものでないと、存在してはいけないというわけではない。
生まれてきたからには、何の理由もなくこの世界に存在していい
仕事や社会貢献もしえないホームレス、障碍者、病人であってもそれは変わらず、目的、意義がなくてもみな存在していいという権利があるんだと。
そして、
自分の人生に意義を見出せなくたって、生まれてきて存在している以上は、せっかくだから楽しいことをして生きていこうよ
という旨のメッセージで話は締められる。
最近では障碍者福祉施設で障碍者を無差別に殺害されたという痛ましいニュースを聞いたり、「何らかの社会貢献、意義、目的をもたない存在は存在する価値がない」といった極端な意見を持つものが時折現れている。
今一度、我々は
存在する権利を牡蠣から学びなおすべきなのかもしれない。